最終更新日:1998年9月17日

本資料は総南文化財センターの了解のもとで転載しています。

 

茂原市下太田貝塚の調査成果について

 

  下太田(しもおおだ)貝塚は茂原市下太田の旧字埋田・沼尻・駒形に跨り、二級河川一宮川の支流阿久川の上流域にあり、東西を丘陵に挟まれた南向きの埋没谷中に立地する縄文時代中期〜晩期にかけて形成された低湿地遺跡である。財団法人総南文化財センターが平成9年6月来行ってきた発掘調査の結果、縄文時代中期後半・後記前半・後期中葉の三時期の墓域が層位的に検出され、時期を追って墓域の構成が変化していることが確認できた。

下太田遺跡の場所


1.遺跡の発見・調査の経緯

  下太田貝塚の発見は昭和7年頃とされ、開田工事の際に縄文土器や人骨が出土したことを聞き及んだ篠崎四郎氏(日本考古学協会会員・故人)によって昭和8年に発掘調査が試みられ、その内容が昭和12年発行の「先史考古学 1巻2号」によって公表され、貝塚を伴う低湿地遺跡としての性格が学会に周知されることとなった。

  戦後、昭和41・42年に県立東金高校を主体とした調査(指導川戸彰氏・現千葉県文化財保護協会理事長)が行われ、4mx12mの調査範囲から10体以上の縄文時代人骨が出土した。この調査地点の隣接地168・が当時の本納町に寄贈され、現在茂原市指定史跡となっている。 遺跡一帯を含む土地改良事業と河川改修事業が計画され、平成7年度において遺跡範囲の確定・内容の把握を目的として、千葉県教育委員会・茂原市教育委員会の指導のもと、財団法人長生郡市文化財センター(平成9年4月より総南文化財センターへと改組・名称変更)が確認調査を行い、従来知られていた阿久川左岸だけでなく同右岸にもかなりの広がりを持つことが明らかとなった。

下太田遺跡の範囲

 

2.平成9年度調査の概要

  平成9年度は860・を対象として、平成9年6月〜平成10年6月迄調査を行った。縄文時代後期後葉の旧河道1条を検出したほか、包含層の内中期後葉に3層、後期初頭に1層、合計4層の貝層の形成も行われている。包含層から検出した土器・石器とシカ・イノシシを中心とした獣骨の量はコンテナ500箱以上におよび、また従来の関東地方の縄文時代土器編年を検証する出土状態を示している。また出土土器からは、縄文時代中期後半では、安房地方や三浦半島等西関東との交渉が活発であり、後期初等以降では東北地方南部との関係が高まるという、当地方と他地域との交渉関係の変化が、伴う異系統土器によって導かれる。

 

墓域の変遷

  今回の下太田貝塚の調査では中期後葉(加曾利EIII式〜加曾利EIV式期)・後期初頭(称名寺式〜堀之内式1式期)・後期中葉(堀之内2式〜加曾利B1式期)においてそれぞれ構成の異なる墓域が形成されていることが判明している。

a.中期後葉期墓域の構成

 ・ヒト58体(嬰児〜乳児11体、5〜6歳以上老年まで47体)、埋甕1基、イノシシ幼獣7体、イヌ1体を検出。

 ・大小二つのの環もしくは多角形をなして埋葬され、中間にもう一つの環が出来る可能性がある。

 ・埋葬姿勢は屈葬で膝を胸元まで引きつけるものと墓抗の壁面にもたれかけさせるものの区別がある。

 ・嬰児〜乳児は環の中で二箇所に集中する。

 ・イノシシ幼獣の埋葬から、イノシシの飼育が行われていた可能性が認められる。

縄文時代中期後葉(約4,000年前)の墓域(小図)

縄文時代中期後葉(約4,000年前)の墓域(大図)

b.後期初頭期墓域の構成

 ・埋甕23基を検出、大人の埋葬は確認していない。

 ・埋甕の分布は中期後葉期の嬰児〜幼児・イノシシ幼獣の埋葬範囲とほぼ一致する。

 ・嬰児〜幼児と大人とが別々の墓域を構成した可能性が高い。

縄文時代後期初頭(約3,500年前)の墓域(小図)

縄文時代後期初頭(約3,500年前)の墓域(大図)

c.後期中葉期の墓域の構成

 ・ヒト51体、イノシシ1体、人骨集積土抗3基(推定80体以上)

 ・方形もしくは長方形と思われる複数の区画内に集中して埋葬される。

 ・埋葬姿勢は伸展葬と屈葬。ただし中期後葉期の屈葬とは区別可能。

 ・人骨集積土抗の人骨はミイラ状となった後土抗内に投棄されたと考えられる。

縄文時代後期中葉(約3,000年前)の墓域(小図)

縄文時代後期中葉(約3,000年前)の墓域(大図)

以上

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