最終更新日:1999年3月23日

 

広報「もばら」平成8年11月より

明らかな誤字、誤記も見られるがそのまま転記した


下太田貝塚

市指定 昭和48年1月
所在地  茂原市下太田九九一
所有  茂原市

  昭和42年と43年の夏休みを利用して、県立東金高校指導者川戸彰氏が主体となり、(中略)本納文化財顕彰会(会長:三枝幹男氏)の協力により発掘調査したもので、縄文後期から晩期にわたる遺物を包含する遺跡、土器、石器、曲玉(まがたま)、土偶(どぐう)など多くの物が発掘された中に特筆すべきは、コンクリートのように固い10体の人骨である。伸展葬、屈葬、男女それぞれの人骨があり、一・五メートル〜二メートル近くの地下に2段に埋葬されていた。ではなぜかはあとでふれる(注1)

  東房総として、また低地帯貝塚としては、きわめて珍しいものであると言われている。人骨十体は新潟大学医学部に保管されている。というもののあくまで所有は市であるのに未だ返還されていない。(かとしん注:その後茂原市に返還されたと聞いています)

当時の新聞記事(新聞名不明昭和42年8月3日付)県立東金高校考古学クラブ(川戸彰教諭と生徒20人)は7月23日から下太田貝塚の発掘調査を続けているが、このほど約3500年前のものと思われる人骨10体と土器の製作過程を知るうえで貴重な資料となる縄文中期から後期にかけての土器の破片などを発掘した。(中略)人骨はいずれも地下3メートルのところで発掘されているが、川戸氏は「低地の貝塚から1度にこれほど多くの人骨が発見された例は全国でも初めて」と語っている。地表から3.0メートルの「加曽利」B式(2500〜3000年前)と3.6メートル地点「加曽利」E式(4500年前)と約1000年間にわたっての土器が順に発掘されている。 以下省略

  以前にも「イノシシ」、「シカ」の骨なども出土しているが、新聞は触れていない。それが、にわかにクローズアップされたのは阿久川の河川改修工事のため、下太田1054−1伊藤工業横水田を昨年11月試掘(機械使用)を行ったとき、多量の焼獣骨と「ベンガラ」が発見されたことだ。

  今回の場所は前回より少し離れている。4500年前から2500年前の縄文中期から晩期にわたる低湿地遺跡、縦横1.6メートル、深さ3メートル〜3.6メートルのテスト、ピットにユンボを使用して約60カ所掘った。出土した泥砂を手で仕分けする方法、昨年12月末、すでに8割近くの試掘を終え土器の破片や加工した跡のある木片、トチの実なども見つかった。土器編年でいうならば「加曽利」B〜E式それと多量の焼けた獣骨と「赤い粒」、直径数ミリ、良く見ないと発見されない。わずかな試掘で何個も見つかったことは、かなりの量がまかれたのではないか。

注1 人骨がほとんど完全な姿で発見されるのには2つの理由がある。専門家の意見要約
(1)沖縄港川人 隆越珊瑚地帯(石灰岩)に二酸化炭素を含む雨が降ると炭酸カルシウムが溶けて骨が「炭酸石灰」化する。港川人が中国柳江人と同時代1万8000年前海退期(氷河期)に陸橋を渡って渡来したものと考えられている。
(2)下太田貝塚 貝塚に埋葬されているため、貝類の炭酸カルシウムが溶けて前述の通りは骨が石灰質化するのであろう。同時に出土する魚類の骨も完全に残っている。また、「縄文期」には貝塚等に埋葬することが多いが、「弥生」以降になると土葬(ローム層内酸性)のため残っていない。「朱」と「ベンガラ」の件は後日記載する。

茂原市文化財審議会委員
千 葉 東 弥



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