最終更新日:2000年9月17日

以下は、平成12年8月の茂原市郷土資料館の郷土収蔵展「郷土の歴史と文化(その2)」展示にあった解説と図を写したものです。


 歴史の玉手箱(No10)

展示品解説ノート

海軍茂原航空隊

飛行場のあらまし
 日中戦争の本格化と日米関係の悪化と言う状況の中、昭和16年に茂原市の東郷地区に海軍飛行場の建設が決定された。これが茂原海軍航空隊で、通常「茂原飛行場」と呼ばれている。
 建設決定に伴い、飛行場予定地内の住民は、軍の命令により強制的に移転させられた。茂原市史によれば、移転民家数は103戸となっており、この他にも寺院や神社、駐在所、東郷村役場や東郷小学校も移転している。
 飛行場の範囲は、防衛庁戦史資料室資料では、幅1,500m、長さ1,300mの1,950,000平方メートルと記録されている。大まかに見ると、東郷富士見と呼ばれる地区に格納庫ゃ滑走路と言った飛行機に係わる施設が作られ、萩原町には航空隊本部や兵舎、徴用工(飛行場建設のために集められた作業員)の住居などが作られた。また豊田地区の山中には、地下壕(通称海軍壕)も掘られている。
 飛行場の主な施設は、長1,200m、幅80mの滑走路と誘導路、これに約20基の掩体壕、航空隊本部および兵舎などがある。また茂原駅からは基地への鉄道引き込み線が作られ、長柄町六地蔵に作った水源地から水道も引いたという。

飛行場跡を訪ねる
 さて、現在飛行場の跡地は農地や三井東庄千葉工場、萩原町と呼ばれる住宅地になっており、その姿を一変させているが、飛行場の様子を今に伝えるものも多く残っている。
 先ず阿久川の東側、東郷富士見地区から見てみよう。飛行場の主要施設である滑走路跡は通称1,000m道路と呼ばれる道として残っている。またこれに取り付く誘導路の一部も、道路として利用されている。
 掩体壕(飛行機を爆撃から守る壕)は20基あまり作られたようだが、現在9基が残っている。これらは倉庫などに利用されているものもあるが、1基は茂原市が文化財として保存している。これは艦載爆撃磯用の掩体壕で、ゼロ戦のものより一回り大きい。
 続いて阿久川の西側に日を移すと、茂原駅東口から総合市民センターを経て茂原中学校へ向かう道の右手の歩道を、鉄道引き込み線が走っていた。また阿久川には、居住区と飛行場区を紙ぶ橋が架けられていた。河川改修でほとんどが取り壊されたが、県立茂原農業高校正門付近に橋脚が一カ所、草に埋もれて残っている。
 茂原中学校は、兵舎の跡地に作られた。(昭和24年の開校時は、兵舎を教室として使用している)また萩原小学校も、航空隊本部跡地に作られている。
 茂原海軍飛行場建設は、茂原の風景を大きく変えている。茂原から大網方面へ向かう道(房総街道)が飛行場用地内に入ったため、きゅうきょ迂回路が造られた。国道128号線の高師〜腰当間がこれにあたる。また県道茂原環状線の谷本〜国昌間も迂回路で、通称海軍道路と呼ばれている。
 このように現在道路や学校と言った生活に密着した施設が、実は飛行場という軍事施設の跡を利用したものなのである。これらを考えながら跡地を訴ねてみてはどうだろうか。

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